知覧城 2011.3.21



所在地: 鹿児島県南九州市知覧町郡
最寄駅: 九州新幹線鹿児島中央駅または指宿枕崎線喜入駅からバス、中郡下車
別 名: 上木場城
現存遺構: 郭、空堀、土塁
区 分: 山城
城 主: 知覧(平)氏、佐多氏、種子島氏
歴 史: 平安時代郡司の知覧(平)忠信が築城?
1353(文和2)島津貞久の弟・佐多忠光が足利尊氏より知覧の所領を与えられる
1420(応永27)今給黎久俊に奪われていた知覧を島津久豊が奪い返し佐多親久に与える
1591(天正19)家人の海賊行為が咎められ佐多氏は川辺に転封
1595(文禄4)太閤検地の後に知覧は種子島氏の所領となる
1610(慶長10)佐多氏12代忠充が知覧に戻るが知覧城はそれより前に焼失、廃城
1751-64(宝暦年間)佐多氏18代久峰が外城として知覧麓を整備
1993(平成5)国史跡に指定


鹿児島交通バス中郡バス停で降りて徒歩約1.3km、道の脇に「史跡 知覧城」の看板。ここから右に折れる。

ちょっと古めの石碑も。

しばらく坂を下ると広場と駐車場が。そこに説明板。

上空からの写真。

曲輪配置図。

地形図だとこうなる。

説明板。「鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、当時は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久が臨んでいました。その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが。ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久の弟佐多氏の初代の忠光の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以後、知覧は佐多氏の領地となりました。室町時代初め、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊が押領して、島津氏8代目久豊に反抗していましたが、応永27年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城とよばれました)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。その後、天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城になったものと思われます。知覧城はシラス台地のへりにできた浸食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原型がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。」

その左端に矢印。ここから城域。

ちょっとした小山。この頂上が本丸。

今城と東ノ栫の間の空堀。

本丸と今城の間の空堀。

空堀。

空堀にも高低差あり。

ちょっと高台になったところに出る。正面が蔵之城(倉ノ城)、右手に本丸。

まずは蔵之城に上る。

土塁。

土塁UP。

説明板。

「知覧城は知覧麓の武家屋敷群から南西に約1.2キロ、シラス台地の自然地形を利用して、深い空堀で区画され、独立した大規模な丘陵を形成した中世佐多氏の居城である。城の中心に位置する蔵之城は、平成13年(2001)から16年(2004)に発掘調査が実施された。掘立柱の建物跡や炉、虎口(城の入口)などの施設の跡がみつかった。遺物には15世紀・16世紀代を中心とした中国(明)やタイ(シャム)などの青磁や白磁、染付けの皿・碗、瓶それに茶つぼ・茶入れ、甕など多数の陶磁器片がある。また、硯や碁石、かんざし、鉄クギ、青銅製の十一面観音菩薩立像などが出土した。曲輪(平坦地)の南側には、掘立柱建物が密集して建っていたのに対して、北側には、木炭を含んだ施設の跡や炉跡などが見つかっていることから、北側は作業場や炊事場で、南側は、武士たちの居住の場として区別されていたのだろうか。当時の城でのくらしがしのばれる。」

土坑。

掘立柱跡。

掘立柱建物跡の写真。

何やら溝のようなへこみ。遺構かどうかは?

蔵之城を降りて本丸に。

本丸には石碑と桜の木。

3/21でソメイヨシノが咲いていた。

本丸。

本丸。

これも建物跡かへこみが。説明板などはなし。

ここにも溝。

こちらは隆起。

掘立柱跡。




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